生きるを手繰る

生きづらい私が、生きる気持ちをゆるりと手繰り寄せるために

シンガポールの雨

小学校時代、2年間だけシンガポールに住んでいた。父の海外赴任が理由で、ちょうどバブルが終わりに近づいている頃だった。

時代が時代だったせいか、現地には似たようなサラリーマン家庭が多く、日本人は大勢いた。私は日本人小学校に通っていたから、海外と言っても、実はそこまで日本の生活と大差ない。当時は小2、小3で生活圏が限られているし、食事も日本食が多かった。大人側では、きっと駐在員生活特有のあれこれがあったのだろうが、案外子どもは呑気なものである。

シンガポールは昔から都会だ。屋上のプールが有名なマリーナベイ・サンズ・ホテルなんかはまだなかったけど、当時から日本のデパートがいくつかあったし、ビルは軒並み高層だ。国土の小さな国だから、上へ上へとスペースを作るしかない。ついでに言うと、かつてのマーライオンも拍子抜けするくらい小さかった。

そして、街はキレイで清潔。その美観は、「ゴミのポイ捨て」はもちろん「ガムの持ち込み」まで禁止する幾多の厳格な法律に支えられるものだけど、別に人々は萎縮するでもなく、おおらかに暮らしていたような印象がある。

何せ、暑いのだ。赤道直下の常夏シティ。ここ数年の日本の猛暑が、年間通して続くようなイメージかもしれない。日差しが強くて湿度が高いから、服装がラフになる。子どもたちは皆こんがりと日焼けしていて、私も半袖短パンで色黒だった。

そんな熱帯雨林気候の国で、特に印象的だったのが、スコール。シンガポールの雨に「しとしと」という形容は似合わない。まさにバケツをひっくり返したような降り方をするから。その頃はまだ、ゲリラ雷雨なんて言葉は聞いたことがなかった。

スコールは、毎日のように降る。シンガポールには、正確には雨季と乾季が存在するけど、実際の生活ではそれほど意識されていなかったように思う。どちらの時季もスコールは降るし、一度降り出してしまうと、人間はその激しさに太刀打ちできない。傘を差してもずぶ濡れになるから、外を歩くのは困難だ。

こんな時は、ジタバタしても仕方がないのだ。街ゆく人は歩くのを一旦諦めて、のんびりと雨宿りする。街路樹に張り付いたトカゲたちも、葉っぱの陰でおとなしく収束を待っている。

煙る視界。滝のような雨音。思い思いの待ち時間。

雨は、長くても1〜2時間あれば止む。止んだ後は、また太陽があっけらかんと顔を出す。さっきまで大泣きしていた子どもが、ケロっとした顔で笑い出すかのように。それはさながら、幼い頃から泣き虫で気分屋の自分を見るようでもある。

そして、なんのかんのと言いながらも、私という人間がどこか根本的に能天気なのは、来る日も来る日も降ったスコールのおかげでもあるのかもしれない。だって、目の前で証明し続けてくれたのだから。止まない雨はない、と。

 

お題「雨の日のちょっといい話」

sourceone.hatenablog.com

 

【お知らせ&noteの使用感】詩っぽいエッセイなどは今後noteで

どうも最近お知らせてばかりですみません。色々と過渡期なのかもしれませんね。

さてさて、実は先月からポツリポツリとnoteというサービスを使い始めておりました。ひっそり試していたのですが、もう少し続けてみようと思うのでお知らせします。このブログとは以下のように使い分けています。

このブログとnoteの住み分けイメージ

  • 生きるを手繰る:病気、生きづらさに関すること。ノウハウ寄り体験記。
  • note:エッセイ、詩、コラム、その他の散文など創作風のもの。体調以外のこと。短め。

以前に時々詩っぽいもの(文章スケッチなど)を書いて頭を休めていたのですが、noteはその変形版でもあります。病気以外のことを考えたい時の救いであり、新たな楽しみと修行の場になりそうです。身近に創作を勉強している人がいるので、憧れもあるのかな。

内容は、特に役に立つ情報でもなければ、誰かを励ますような話でもありません。でも抽象的な物や創作物やエンターテインメントには、その曖昧さゆえの良さがあると私は思っています。

これは受け手の視点で書いたものですが、創り手に関しても似ていると思うのです。私のような素人でも創るのを楽しめる時代なのは有り難いです。

note.mu

よろしければ覗いていただけると、とっても嬉しいです。ユーザー登録なしでもスキ(≒いいね!)が出来るので、もしスキだと思っていただけたらお願いします。すごーく喜びます。

noteの使用感など

せっかくなので、これまでのnoteの使用感をメモしておきます。これから何かやってみたい方、他サービスと比較したい方の参考になれば。ただし偏屈な人の主観です。

雰囲気はそれなりに世知辛い

  • ビジネスの人、有名人、本当に意識が高い人、意識高い系の人、クリエイター系の人が多い
  • 無名の人は相手にされにくい。とりあえず営業される
  • はてなの有名ブロガーさんですら何人か撤退した形跡あり。はてなとは違う原理で動いている
  • 認められたい人は努力とセンスでがんばろう
  • コミュニティ的な使い方も可能だとは思うが、他サービスの仕組みの方が向いてそう

ツールとしての使用感がステキ

  • テキストエディタ(PC版)がシンプルで書きやすい
  • 他ユーザー提供の写真やイラストを使わせてもらえる機能がある
  • サービス全体のデザインがキレイなので、中身の作成に専念できる
  • ハッシュタグなどを使えば、フォロワーがいなくても意外と閲覧される
  • 画像はもちろん、音声や動画もアップできる
  • こまめに機能が改善されている

読む・見る側のユーザーとしての使い勝手

  • 閲覧専用のアカウントも作成できる
  • 有名・人気コンテンツが探しやすいので、読む専用でも楽しめる
  • ニッチなものを読みたい場合は、ハッシュタグを追うなどして発掘する必要がある
  • でも内容に関係ないハッシュタグを付ける人がいるので、時々探しづらい 

ざっくりとこんな形です。やはりブログサービスとSNSの中間的な印象がありますね。私は編集機能の使い心地とデザインが好きなので、細々と地道に使っていきたいと思います。

 

もちろんブログも引き続き更新します。脳の調子次第で、ブログで体調のことを書いたり、noteで他のことを書いたりするつもりです。

(Twitterは正直全然向いていなくて、あまりつぶやいていないのですが、note更新のお知らせは流していきます。色々な方とお話しするツールとしては大変便利なのですが、文字数や流れの速さなどの仕組みが私には合わないんですよね…。)

情報過多になるSNSが超苦手なくせに、色々と手を広げつつあります。使い分けをしながら、マイペースにやっていきます。

 

というわけで、もしお口に合えばnoteの方もどうぞよろしくお願いいたします。

note.mu 

夏目漱石か伊坂幸太郎か、それが問題だ

*この記事は、歯磨きくらいの時間で読めそうです / 約1,700字*

こんなタイトルだけど、どの作家が好きか、みたいな話ではありません。

 

このところ、歴代の職場の元同僚と会う機会が多く、多くの人とお互いの近況報告をしました。相手は特に病気ではないけれど、私の体調のことはある程度知ってくれているという関係性です。

みんな色々大変だけど、元気にやっているようでした。離職率の高い職場でも、上手に現実と折り合いをつけて頑張っている、とか。結婚してママになったからこれから産休を取るんだ、とか。産休だったけど保育園が決まって復職するんだ、とか。そんな話を聞きました。

 

もちろん、誰もマウントなんて取ってきません。それどころか優しい人が多いから、社会復帰できていない私を慰めてくれたりもしました。「組織のおじさんを中心に回ってる、今の世の中の方がおかしいんだよー」なんて言って。

だから嫌な出来事は1つもなかった。むしろ、楽しい話をたくさんして大笑いして帰ってきたはずなのに、外出の疲労も重なって、何だか後からぼんやりと落ち込んでいました。

 

できるだけ、他人と自分を比べないようにしているつもり。なのですが。

仕事もしてないし、なーんにも持っていない自分の人生があまりに稚拙で情けなく感じられて、もはや周回遅れどころじゃないよなぁと、何とも言えない虚しさを覚えてしまいました。

 

ちなみに、知人の中には就労移行支援(障害福祉施設)で働いている人もいるので、「私、通った方がいいのかな?」という相談もしてみたのですが、「なんか久世さんは違うような気がする」と言われました。やっぱりか…。就労移行の仕組みは理解していて、過去に見学に行ったこともあるのですが、私も何か違うような気はしているのです。施設の良し悪しではなく、相性の問題として。

 

道筋が、見えてこない。 

 

次第に気分が厭世的になると共に、そんな自分自身が何よりも嫌になるモードに入っていきました。下記のOK牧場で言うなら、「私も他人もNOT OK」の全否定な領域に近づいていくわけです。

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そんな気持ちでいてもロクなことがないので、早く抜け出さなければ……と思いながらも、ぐるぐると悩み続けていました。しまいには、『草枕』の例の一節まで浮かんできます。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。*1

夏目漱石『草枕』(新潮文庫、2005年)

情に棹さしてガンガン流されたり、意地を通して窮屈な思いをするのも、私の日常では本当によくあることです。あまりに自分にピッタリな表現で思わず笑ってしまいました。それと同時に、いつの時代も世の中は住みにくいものなのよね、と改めて思ったりもして。

 

モヤモヤするばかりで考えが上手くまとまらず、停滞する日々。次にふと思い出したのは、伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』でした。

この小説は、監視や拷問がはびこるディストピアな日本(仙台)が舞台。今の世の中が生きにくいなんて言ったらバチが当たりそうなくらいダークな世界観なんだけど、ストーリーもさることながら、私にとっては「火星に住むつもりかい?」というタイトルが印象的です。

その意味は、ある登場人物のセリフから読み取れます。

どう考えようと、どれだけ不満があろうと、今のこの社会を生きていくしかないよね。(中略)気に入らないなら、国を出ればいい。ただ、どの国もこの社会の延長線上にある。(中略)この国より幸せだと言えるのかな。それとも、いっそのこと火星にでも住むつもり?

伊坂幸太郎『火星に住むつもりかい?』(光文社文庫、2018年)

 

今のところ、私は火星に引っ越す予定はありません。それに、留まるにしても移住するにしても、今の私には力が足りない。世の中の変化をボケっと待ってても仕方がないので、また毎日コツコツと、自分自身に何らかの力を付けていくのが現実的な方法なんだと思います。

そして、また色々なことが嫌になってワケがわからなくなったら、自分自身に聞いてみるつもりです。

 

じゃあ、どうするの?火星に住むつもりかい?って。 

  

 

*1:一応付け足しておくと、本当はきっとこの続きの方が大切なんだと思います。「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」などなど。

つらい時のための、ささやかなお話『雪の山』


毎日がつらい。しんどくてたまらない。
頭はどこかぼんやりとし、時間や日々の境目があいまいになる。花も、鳥も、雲も目に映らない。大好きな音楽すら、ただのノイズに聞こえる。

 

そんな時の気持ちはまるで、雪山で、たったひとりぼっちで、遭難しているよう。
ふとそんな風に思う。

 

実際にどこにいるのかは関係ない。
今の季節がいつであろうと、暖かな部屋の中だろうと、お布団にぎゅっと包まっていようと、つらくてたまらない心の中では、ごうごうと吹雪が吹き荒れている。

雪山。Free-PhotosによるPixabayからの画像

ひょうのように硬い雪が、頬を打つ。強烈な風が、体を押し戻すように行く手を阻む。寒さがピリピリと身を切り裂き、全身に沁みていく。
やがて氷がじわじわと、体の内側からも広がっていく。すっかり心まで凍りつく。

 

もうダメだ、と思うかもしれない。
世界はこんなに寒くて冷たくて、わたしはここで凍えているのに、どうして誰も助けに来てくれないんだろう。眠っている間に誰かがそっと、あたたかな場所に運んでくれたらいいのに。

でもきっと、そんなことは起こらない。そんな風にも思っている。
もう、どうなっても構わないよ。このまま目を閉じて横になってしまいたい。たとえこのまま、目覚めないとしても──。

 

もしかしたら、そんな気持ちにもなるのかもしれない。

 

そうだね。たったひとりで、よくがんばってきたね。
そんな時は、できるだけ雪も風も当たらない場所まで這っていって、ゆっくり休もうか。たくさんたくさん休もうか。
暖かい洞窟で火に当たって、温かーいスープを飲む。安心してよく眠ったら、また食べて、あたたまる。その繰り返し。
凍りついた心と体を融かすには、思いのほか時間がかかる。だから、じっくりゆっくり時間をかける。
「早く出て来なさーい!」とどこかから呼ぶ声がしても、そんなのは全然聞かないことにする。心と体がぽかぽかして、自然とエネルギーが満ちてくるまで、何か月でも何年でも時間をかける。
自分のタイミング。それぞれのタイミング。

キャンプ。Free-PhotosによるPixabayからの画像

 

そしていつか、エネルギーが貯まったら、自分の足で立ち上がる。
残念だけど、洞窟の中まで助けが来てくれることは、あんまりないから。この世界では、あまりにもたくさんの人が遭難しているから。

だから、全身に着込めるだけの服を着て、あたたかな洞窟からそーっと顔を出す。
吹雪のタイミングを見ながら、一歩ずつゆっくりと、歩を進めていく。

 

空を見上げれば、運よく救助のヘリが見つかるかもしれない。でも気がついてもらうには、自分で一生懸命に旗を振らないといけない。
目の前に降りてきたロープを掴み、よじ登るのも自分自身だ。腕の力が足りなければ、上までは辿り着けない。

 

いくら空を見渡しても、必死で雪道を下っても、何にも、誰も、見えないこともある。
助けを求めて伸ばした手を、振り払われることもある。ひょっとしたら、信じた相手に身ぐるみ剥がされてしまうこともあるのかもしれない。
悲しくて絶望しそうになるけど、そんな目に遭うのは、自分に価値がないからじゃない。
たまたま遭難した場所が悪かったとか、みんな生き残るのに必死だとか、ほかの色々な理由なんだろう。

吹雪。Hans BraxmeierによるPixabayからの画像

過酷な旅だ。それなのに、どうして必死で山を下りようとするんだろう。
凍りつくのが怖いから。寒かった記憶、つらかった記憶だけで終わりたくないから。すべてをあきらめそうな心の片隅で、本当はあたたかな風景を求めているから。

だから、また雪や風の隙を見計らって、再び自分の足で踏み出していく。
時には何度でも洞窟で休む。 

 

孤独な道のり。そうかもしれない。
だけど、何もかもすべてをひとりで背負わなくてもいい。

 

実はみんな、トランシーバーを持っているから。それはふとした拍子につながって、お互いの声が聞こえるから。

 

「おーい、寒さが身に堪えるよ。そっちはどうだい?」

 

「やあ。なかなか大変だよ。でも、がんばっているよ」

 

「そうか。お互い一歩ずつ、歩いていこうね」

 

そうやって時々、心に小さな火を灯しながら、それぞれ自分のやり方で、ゆっくり山を下りて行く。

 

いつか山のふもとで、会えますように。

 


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『もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて』を読んで

唐突だけど、矢川冬さん (id:yagawafuyu)が書かれた『もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて』という本を読み終えたので、その話を書きたいと思う。

私は性虐待の当事者ではなく、いわゆるフェミニストでもない。ジェンダー意識に関しては、私はおそらくマジョリティであり、あえてその視点から書く。

自分に縁のないテーマだと思った方も、ちょっと読んでみて頂けたら嬉しい。長いので、この記事自体は斜め読みしてもらって、ぜひ本を知って頂ければ。

 

『もう、沈黙はしない』を当事者以外にも勧める理由

この本では、実父の性的虐待からサバイブされてきた矢川冬さんの人生が克明に綴られている。矢川さんは現在60代で、児童虐待、性虐待の概念が浸透していない世の中を、本当に独力で生き抜いて来られた方である。

ぜひご本人のブログから本を見て頂きたいので、ここにAmazonのリンクは貼らない。理由は後述する。

yagawafuyu.hatenablog.com

渾身の力を振り絞って書かれたこの本には、矢川冬さんが感じ続けた痛みと怒りがほとばしっている。そして、怒りを不屈の精神に変えて、自力で道を切り拓いてこられたその姿は、人の心を強く打つ。

当然、感情を強く揺さぶられる本なのだが、同時にこれは、理不尽な暴力に対しての理性と知性による闘いだとも感じた。その強力な武器は、ご本人が自らの力で手に入れてきたものである。

 

この本は、性虐待の当事者だけでなく、もっと広い層に読まれてほしい。そう思った理由を3つの観点で書いてみる。

性虐待・性犯罪について

性的に虐げられることは、人間の本能や根源に関わる何かを傷つけられること。読後に考えたのはそんなことだった。だから、自尊心についた傷は目に見えるより遥かに深く、人生への影響も大きい。被害に遭った人が回復に長い時間を要するのは当然で、いま生き延びている姿そのものが、とてつもない強さの証明に感じた。

被害者でも加害者でもない“他人”がこういった本を読むことで、二次被害を減らす。それが一番身近なアクションに思えた。「二次被害」というのは、例えば被害者が社会で責められたり、自らを恥じてしまうような場面に陥ることであり、本の中でもその様子は度々描かれている。

二次被害は、得てして知識と想像力の不足から発生する。だからこそ、この本は女性だけでなく男性にも読んでもらいたい。奥さんや娘さんがいる人。彼女がいる人も、いない人も。

理想論かもしれないけれど、傷ついた人が正当で適切な対処を受けられる世の中になれば、良識ある男性が変に窮屈な思いをしないで済むようになるとも思うのだ。

(話が逸れるけど、もしLGBTQの人であれば、自らの性との葛藤という意味合いでもこの本が心に響くかもしれない。)

 

そういう私自身も、読んでいる途中で、ある意味性犯罪への感覚が麻痺していたと気付かされた。

数ヶ月前、仕事帰りに駅のホームで痴漢に遭ったのだが、疲れていたし面倒だったので何もせずに帰宅したのだ。駅員に訴えようかと思ったけど、犯人に顔を覚えられたりしても嫌だった。帰り道にふと「私が何もしなかったことで、あの後に他の人も体を触られたかもしれない」と気づいたけれど、もう遅かった。

この本を読んで、その時のことを思い出した。他にも痴漢に遭った経験は何度かあるが、捕まえたことはない。彼らは素早くて陰湿だけど、次は反撃する努力をしたいと思った。何というか、そういうことから始めたいと思った。

家族・親子について

家族や親子のあり方は、『もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて』のもう1つの大きなテーマである。血縁だけで、家族は家族たり得るのか。

私があまり冷静にこの本を読み進められなかった一番の理由は、ここにある。実際のところ「同じ体験をしてないのに、なぜかこの感覚は知っている。どうも他人事と思えない」と、毎回大泣きしながら読んでいた。泣きながら本を閉じてそのまま寝るので、翌朝はいつもプチお岩さん状態になっていた。

虐待を受けたとまでは思っていなくても、毒親、AC(アダルトチルドレン)などのワードに反応してしまう人は、感じるところが色々あると思う。

印象的なエピソードを挙げるとキリがないので、フレーズとして特にギクッとしたものを少し抜粋させていただく。

喜ぶと必ず罰がおりる。(p.15)

心的エネルギーを使い尽くす。ただ生きているだけで精いっぱいだった。(p.52)

私は突然、「私は悪くない!」と電話口で叫んでいました。自分でも驚きました。(p.60)

医療、法律…専門家の世界

もう1つ興味深いのは、矢川冬さんの闘いの中で、医療や司法の世界の事情が色々と垣間見えてくる点だ。時代の潮流があり、専門家の中にも様々な人が存在する。人を傷つける権威者もいれば、真摯なプロもいる。

特に、戸籍名変更裁判の一連の記録は、法的な観点から見ても非常に興味深い内容ではないか。私は素人だけど、「過去の判例が一つあっても、なかなか申立通りにいかないものなのか」とか、変更事由に関する攻防だとか、とても勉強になった。

裁判に係る「審判書」や「心理状態鑑定書」といった非常に貴重な資料も掲載されているので、そういった意味でも注目すべき本である。

 

 

ここまで読んで、もし興味を持ってくださる方がいたら、ちょっと以下のお願いをさせてください。私は支援活動の類はまずしない薄情な人間なのだけど、今回は微力ながら発信します。

  • 矢川冬さんのブログ内のAmazonリンクから書籍を購入
  • 読後、Amazonでレビューを投稿(今月中)

この2点は、矢川冬さんが運営する少女のためのシェルター支援に繋がります。ご本人のブログに詳細があります。

すごく時間がかかってしまったのだけれど、私も先日レビューを書いたところです。レビューといい、この記事といい、私の圧倒的な力不足で今頃になってしまってごめんなさい。

 

最後になってしまったけれど、この本を知ったきっかけは、さきさん(id:sakyuuu)のブログです。さきさんがいなかったら、この本を読む機会はなかったかもしれない。ありがとうございます。

sakyuuu.hatenablog.com

さきさんも性虐待から生き延びてきたサバイバーで、矢川冬さんと共通するような勇気や強さを持ちつつも、また違う選択をし、違う人生を生きている。

収拾がつかなくなるので今回は触れられないけど、さきさんのブログにも学ぶことや感じることがすごく多い。

 

最後の最後に言いたいこと。私がさきさんや冬さんのブログを読むのは、2人が壮絶な体験をしたからじゃない。その選択や生き方を尊敬しているのと、泣いたり笑ったりしている文章から見えるその人柄を、勝手に好きになったからだ。

素敵な書きまつがい

ほぼ日刊イトイ新聞 - 今日の言いまつがい

誰にでもある“言いまつがい”こと、言い間違い。私は言葉ネタに弱いので、こういうのも結構好きです。ただ、長い間記憶に残っているのは、書き間違いの方が多い気がします。視覚的な文字情報が印象に残りやすいタイプなのかもしれません。

詳しい記憶のメカニズムはわかりませんが、なぜか忘れられない“書きまつがい”。今日はそんな他愛もない話です。

申し上げなす

私の友人が、右も左もわからない新入社員だった頃に生み出した作品。

取引先に宛てたメールを、「ご連絡申し上げなす。」と締めくくって送信したそうです。すぐに指導役の先輩から「さっきのメール、ナス揚がっちゃってるよ!」とツッコミが入ったそうな。

しっかり者の友人には珍しい間違いなのですが、揚げ茄子のオチまでキレイに決まるところがお見事。

ありがおつございました

過去の職場の大先輩による作品。

この方、仕事に関しては、私なんか足元にも及ばないプロ中のプロだったのですが、不思議なほどタイプミスが多い。大体のメールをccで共有する職場だったので、自然とそれが目に入ってくるわけですが、おおらかで素敵なご本人のキャラと相まって、もはや読むのが癒しになっていました。

数多くあったタイポ・誤変換の中でも、この「ありがおつございました」は、もはや定番。一度や二度見かけたというレベルではなかった。

素直に考えれば、「ありがとうございました」の中で、「TOU」とキーを打つところを「OTU」と打ち間違える癖があるのだろうと推測できます。

しかし、このフレーズを何度も目にするうちに、私には徐々に「これは新しい挨拶の形なのでは」と思えてきて仕方がなかった。

 

ありがとうございます + おつかれさまでした = ありがおつございました

 

お礼と労いのハイブリッド。一度に2つ伝わるなんて、書く方も読む方も省エネです。

よっぽど自分でも使ってみようかと思いましたが、なかなか勇気と機会がありませんでした。

すつぼい梅

これは、知人にもらったタイのお菓子に書いてありました。“東南アジアのお土産あるある”の変な日本語です。

その名の通り梅のお菓子で、パッケージは、オレンジを基調としたカリカリ梅のようなデザイン。

そこにでかでかと書かれた、 
すつぼい梅 -かちの日本样式のす-
という製品名とキャッチフレーズもどきのインパクトが忘れられず、10年以上経った今でも何かの拍子に思い出します。

手元に写真がなくて残念…と思っていたのですが、ネット上を探してみればあるものですね。まさにこれです。気になる方は、ご覧になってみてください。

すつぼい梅 - アジアに氾濫する怪しい日本語

「すつぼい」も相当気になりますが、「かちの日本样式のす」のカオスさがすごい。ぜひ一回声に出して読んでみてください。「样」の字は中国語(簡体字)のようなので「様」に置き換えましょう。かちのにほんようしきのす。ものすごく脱力しませんか?

さて、気になる味ですが、甘じょっぱさと酸味が合わさった様な、梅っぽいような杏っぽいような、何とも言えない味だったと記憶しています。すつぼかったです。

 


人間、なかなか自分の書きまつがいには気がつかないものなので、ここぞとばかりに他人の間違いをあげつらってみました。 こうして書き出してみると、つい脱力してしまうので、私にとっては癒し効果がありそうです。

ここまでお読みいただき、ありがおつございました。

 

 

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If I were a mother

私は一生、母親になることはないだろう。もしこの先、結婚する機会があったとしても、子どもを持つつもりはない。相手も理解はしてくれている。

 

年齢のせいではない。あえて言うなら、精神的な成長が、生物学的な加齢のスピードに追いつかなかった。

 

たとえ精神的に未熟でも、産んだ子どもと共に成長していくという選択もあったのだと思う。多かれ少なかれ、親とはそういうものだと聞く。
だけど、自分を信じるだけの勇気を持てなかった。

 

だからこれは、仮定の話。子育ての苦労なんて無視した絵空事。

 

もし私が、子どもを育てるとしたら。

 

調子の波がある私でも、愛情はムラなく注ぎたい。
訳もなく不機嫌になったり、冷たくしたりしない。
日々、理不尽な出来事に振り回されると、子どもは混乱してしまう。
混乱が続くと不安を抱き、悪いことはすべて自分のせいだと思い込む。
だから、もし何もしてあげられない日があっても、愛する気持ちだけは子どもに伝えたい。

 

子どもを親友にしない。
父親の悪口を吹き込まない。過去の恋愛話もしない。
批判や愚痴を延々と聞かせて、心を汚染したくない。
「子どもを一人前に扱う」を履き違えてはいけない。子どもは知る必要がないこともある。

 

プライバシーを尊重する。
日記や手紙を盗み見されると、子どもは何も書かなくなる。
興味本位の覗き見だと、なおさらだ。
心に土足で踏み込むと、踏み込まれた方はどんどん心を閉ざす。

 

たくさん褒めて、見守りたい。
好きなことや得意なことに、たくさん「それ、いいね」と言いたい。
他人より優れてなくてもいいんだよ。そんなことはどうでもいいんだ。
楽しいならそれでいい。好きな気持ちや興味を、ずっと大事にできるように。

 

子どもの楽しみや幸せを邪魔しない。
筋の通らない理由で、行動や予定を妨害しない。
楽しみを奪われ続けると、やがて子どもは無気力になる。
「自分には幸せになる価値がない」と思うから、何も行動しなくなる。

 

自分ができていないことを、子どもに要求しない。
お互いが苦手なことは、一緒にがんばりたい。
兄弟で差もつけない。みんなが嫌な思いをするから。 

  

私はきっと、立派な母親にはなれない。

 

だからその分、子どもをたくさん笑わせたい。
大好物の料理をいっぱい作って、時々はお菓子も作ろう。
きっと家の中は散らかってるだろうけど、家族みんなで片付けて、また一緒に散らかして、たくさん冗談を言って、ふざけて、たくさん家族で笑いたい。