人と会うのが苦手
はっきり言って、私は人と会うのが苦手です。元々の性格も社交的ではありませんが、うつになる以前は、もう少し気軽に人と会っていました。うつ症状が出るようになってからは、友人と遊んだ日の帰り道になぜか落ち込んでいたり、飲み会の翌日に寝込んだりすることが増えました。
嫌な相手ならストレスを感じて当然かもしれませんが、なぜ楽しいはずの集まりでも疲れてしまうのか。当初は自覚がなかったのですが、「気を使い過ぎだよ」と他人に指摘されることが何度かあって、気がつきました。「気の使い過ぎ」というよりも「空気を読み過ぎ」「他人の顔色をうかがい過ぎ」であるということに。
「気を使う」「空気を読む」「顔色をうかがう」
そもそも、この3つの違いは何なのでしょうか。
- 気を使う:気遣い。人としての思いやりも含める。基本的にはポジティブな意味合いだが、過剰になると相手も負担に感じる。
- 空気を読む:場の雰囲気に合わせて振る舞う。これもある程度は必要なこと。
- 顔色をうかがう:だいぶネガティブなニュアンス。ある種の怯えであり、自然体でいられない様子。
個人的にはこんな感じで捉えています。(あまり深く追求すると収拾がつかなくなってしまいそうなので、今回はこの辺にしておきます。)
やはり、私の疲労は「空気を読む」「顔色をうかがう」と強く関連しそうな気がします。一体何が起こっているのか、自分なりに考えてみました。
空気を読みすぎて疲れる仕組み
図にすると、私は概ねこんな感じで疲れているようです。なお、完全に個人的な見解であり、心理学等の学術的見地に基づいたものではありません。根拠は自分の感覚だけです。
1つずつ説明していきます。
何らかのトラウマ的体験
過剰に空気を読み、人の顔色をうかがう根本には、何かしら過去に傷ついた体験があるのではないかと考えています。私の場合、母親にあまり愛されていないのではないか、見捨てられるのではないかという不安がありましたが、詳しい話は別の機会に譲ります。
この“トラウマ”には、親子関係だけではなく、いじめ、他人からの拒絶など、人によって色々なことが当てはまり得ます。また、その出来事自体の大きさもさることながら、当人がどれだけ傷ついているかが重要だと思っています。
傷つきたくない気持ち
傷つきたくない、嫌われたくない、好かれたい…。誰にでもある感情だと思いますが、先の“トラウマ的体験”によって、その度合いが過剰になっていることが問題だと考えます。
また、傷つかないために「悪目立ちしたくない」「波風を立てたくない」などの消極的な気持ちが派生することもあります。
他人の顔色に敏感な人の“悲しいPDCAサイクル”
そして「傷つきたくない」の結果として生じる、空気を読もうとしている時の、自分のぐるぐるした思考と行動を表現してみました。
「PDCAサイクルって何?」と思った方は、PDCAサイクル - Wikipediaなどをご参照ください。でも、ちょっとなぞらえて言ってみたかっただけで、実は話の本筋にはさほど関係ありません。あんまり気にしないでください。
空気を読もうとする(Plan)
人との会話が始まる時の「空気を読もう」「相手に合わせよう」という気持ちです。素の自分をなかなか出せない人の場合、「今日はこういうキャラでいこう!」みたいな邪念もあるかと思います。
相手・状況へ反応する(Do)
相手への返答や、何かしらの行動など、実際に自分の取るリアクションを指します。時には「あえて何も反応しない」という選択をすることもあるでしょう。
空気を読めたか心配し、顔色をうかがう(Check)
自分のリアクションが適切だったのか、相手の反応をそっと窺います。
相手の反応を見て、言動を調整する(Action)
顔色をうかがった結果、自分の期待していた反応を得られなかったり、相手の機嫌を損ねてしまった場合、慌てて軌道修正します。
そして無限ループへ
軌道修正後はまた最初に戻り、空気を読もうと頑張ります。その後もぐるぐると同じプロセスを続けるので、すっかり疲労困憊するという不毛な仕組みです。悲しい。
で、解決法は?
長々と読んで頂きながら申し訳ないのですが、目下思案中です。「他人なんて気にしなければいい」という意見をよく聞きますが、それをどうやるのか教えてください、というのが正直な私の気持ちです。
“空気読みすぎ思考”の原因となった体験は、過去のことなので、もう覆りません。 何かできることと言えば、きちんとした治療を受けるなり、自分の中で消化するなりして、完全に「過去」に変えてしまうことだと思います。一人で抱えきれない時は、適切な人の手助けを借りるのも一案です。
負のPDCAサイクルについては、 特にCheckとActionの部分が改善ポイントになりそうな気がしています。もし何か思いついたら、また今度書いてみます。
最後に一つ。今回は「空気を読みすぎる」という表現をしてきましたが、実は「空気を読めない」と悩んでいる人の中にも、同じような思考プロセスの方がいるのではと想像しています。表面的な現象は違っても、困りごとの種類は似ている。そんな気がしています。