生きるを手繰る

生きづらい私が、生きる気持ちをゆるりと手繰り寄せるために

不登校の苦い思い出

ちょっと暗い話です。


私は中3の春に、不登校になりました。20年以上前のことです。

いじめに遭っていた訳ではありません。友人もいました。「これといった原因はない」と思っていました。当時は。

 

大人になってから考えてみると、いくつか思い当たることがあるような気がします。

 

担任の先生がちょっと変

中学の3年間、私はずっと同じ担任のクラスでした。5クラスある学年でしたが、一度も担任が替わらなかったのは、おそらく私だけです。中3のクラス替えの日にショックを受けて、同じような生徒がいないか、目を皿のようにして学年名簿を確認した記憶があるので、たぶん間違いないでしょう。

偶然かと思っていましたが、後に担任自身から「クラス替えの時に何人かは選べる。久世はお気に入りだから、毎年採っている」と聞きました。それを本人に伝えたら、喜ぶと思ったのでしょうか。嫌な気持ちがしました。

気に入られていた理由は、私が都合の良い生徒だったからです。いつも学級委員などの面倒な役割を押し付けられていました。大人の要望とあらば、一を聞いて十を知ることが可能だった私は、なかなか便利な存在だったのではないでしょうか。

この先生は、よく手を洗っている人でした。授業中は必ずチョークホルダーを付けていましたが、「ちょっと問題解いてて」と言って、繰り返し何度もお手洗いに行っていました。勝手な憶測は不適切かもしれませんが、おそらく強迫性障害だったのではないかと思います。通院しているような気配もありました。

何かと不在がちな上、心ここに在らずな先生だったので、クラスの細かいことにまでは気が回りません。そんな時は、おなじみの優等生に丸投げしてしまうのがお手軽です。

病気なのは一向に構いません。私自身もこうですから、「大変ですね。お大事に。」と思えます。しかし、生徒に尻拭いをさせるのはどうなのでしょう。協力を求める相手を間違っていないでしょうか。潔く休職してもらった方が、生徒としては有り難かったような気もします。

荒れていた子たち

通っていたのは公立中学でしたが、中2から中3にかけて急に荒れ出した子たちがいました。劣等生ではありません。小学校時代は活発で、勉強もスポーツも出来た子たちが中心でした。

教室のガラスを割ったり、消火器を撒いたり、警察沙汰になったりと、彼らの暴れぶりは結構なものでした。尾崎豊の世界です。理由はわかりませんが、彼らなりに主張したいことがあったのでしょう。

私はほとんど関わりがなかったので、直接的な被害は受けませんでしたが、この学年の荒廃ぶりは有名で、その後も10年以上に渡って地域で語り継がれるほどでした。

ピリピリする“普通の子”たち

不穏な学校生活の中で、受験を控えた普通の子たちは、少しずつ神経を尖らせていました。

早くこんな場所を抜け出して、良い高校に行きたい。だから内申点が気になるけど、下手に目立って「内申稼ぎ」と周りに思われるのも避けたい。

不安、緊張、周囲の目、思春期の葛藤……。一人ひとりが複雑な思いを抱えていたと思います。教育ママ・パパも少なくなかったので、プレッシャーを感じていた子も多かったはずです。

ホームルームで事件は起きる

そんな時にやってきた、3年生最初のホームルームの時間。例によって、男女一名ずつ学級委員を決めなければなりません。

先ほど私は、「いつも学級委員を押し付けられていた」と書きましたが、本当は正確な表現ではありません。誰ひとり立候補しない沈黙に耐えかねて、「やります」といつも私が申し出てしまうだけです。先生も「やれ」とは言いません。「やってほしそうな顔で自分を見ている」と私が思っていただけです。

他の生徒から見れば、内申点稼ぎと思われていた可能性は十分にあります。そして折悪しくもこの会の前に、私は些細なことでクラスの中心的な男子と気まずい状態になっていました。

原因は一つではなかったような気がします。

いつもの通りに私がしぶしぶ立候補した後も、男子の方はなかなか立候補者が出ませんでした。他薦も可という流れになって推薦されたのは、とても大人しい男の子でした。書きにくいことを書きます。普通学級にいましたが、今だったら何らかの支援の対象だった可能性がある子です。軽度だったとは思いますが、何と言うか“みんなと違う”扱いをされていた男の子でした。

一番の問題は、どう見ても本人が学級委員をやりたいようには見えないのに、他の子たちが煽って無理やり決めてしまったことです。優しい子だったので、断れないように見えました。

そして、その瞬間に私の頭をよぎったのは、「2人分働かなきゃいけないのか」という身勝手な心配でした。そんな私に気がついたのか、相棒となった男の子は困ったような顔をしていたと思います。

担任がどんな顔をしていたのかは、全く覚えていません。

 

あの時、クラス中に漂っていた異様な空気は何だったのか。彼や私に突然向けられた妙な悪意と、鬱積したストレスが生んだ集団心理。その正体は、今でもよくわかりません。

 

あまり思い出せませんが、しばらくの間、私は普通に学校に通っていたのではないかと思います。

気持ちをごまかすことに慣れていたので、あの時自分が何を感じていたのか、うまく理解できないまま過ごしていました。

それに、件のホームルームの直後に、何らかの意思表示をするような勇気はなかったと思います。卑怯な“いい子”でしたから。

broken

5月頃、プツンと糸が切れたように、学校に行かなくなりました。

誰にも相談しなかったし、説明もしませんでした。自分で理解していないのだから、説明できません。

今でも、これが全ての説明になっているのかはわかりません。何かが足りないような気もする、掴みどころのない記憶です。

 

その後、高校には無事に進学できました。皮肉にも担任教師が、ある私立高校を受験できるよう取り計らってくれました。多少は何か思うところがあったのかもしれません。

高校生活が楽しかったこともあって、中学時代の不登校は、私の中で「そんなこともあったな」くらいの出来事になっていました。

 

今振り返って思うのは、学級委員になった彼に一番酷い仕打ちをしたのは、明らかに私だったということです。きっと深く傷つけたのではないかと思うのですが、彼への謝罪を考えることすらしなかったのが、私の身勝手さです。

私が逃げ出したあのクラスを、彼はどうやってまとめたのだろう。

 

当時から、私はキャパシティの小さい人間だったのだと思います。

学級委員の件はきっかけに過ぎず、何年もかけてコップに溜まった水が、あの瞬間に溢れ出た。そんな感じだと思います。

キャパを超えると、解決を試みる前に尻尾を巻いて逃げ出すのが、私のとても悪い癖です。未だにそうです。

そういう時は自分のことしか考えていないので、無益に他人を傷つけたりします。

私が持つ残酷さは、そういった種類のものです。

 

 

どうしてこんな話を書いてしまったのか、自分でもよくわかりません。

強いて言うなら、「ブログではいい人ぶっているけど、私は本当は弱くて酷い奴なんです」と、急に告白したくなったのかもしれません。

 

 

もう、随分と昔の話です。