生きるを手繰る

生きづらい私が、生きる気持ちをゆるりと手繰り寄せるために

感情の発酵と腐敗

昔、ザワークラウトを手作りしたことがあります。

お酢は入れず、キャベツと塩とスパイスだけで作る、びっくりするほどシンプルなレシピ。

初めてでしたが、運良く上手く発酵してくれて、程よい酸味のおいしいザワークラウトができました。

 

すっかり味をしめ、キャベツの量をモリモリ増やして挑んだ2度目。

温度が悪かったのか、塩の分量が違ったのか、それとも初回の成功で調子に乗ったのがいけなかったのか、ちゃんと発酵せずに腐らせてしまいました。もったいないことをした。

 

発酵って難しいものだなと、身をもって感じました。
 

ふと、「発酵」や「腐敗」と「ネガティブな感情の扱い方」は少し似ている、と思うことがあります。

 

怒りや悲しみは、一見マイナスにしかならない感情に思えるけれど、上手く昇華させると、その人の持ち味になりますよね。

辛かった記憶が、行動を起こす原動力になったり、他人への思いやり、感受性や想像力に形を変えたりして、その人の一部になる。

捨てられるはずだった米ぬかが、滋味深いお漬物のぬか床になるように、負の感情が栄養と旨味になることもある。そんな風に思います。

 

一方で、ネガティブな気持ちにぴたりと蓋をして、なかったことにしてみるとどうなるか。

そのまま完全に忘れてしまえるような、些細なことなら構わないのでしょう。でも、本当に傷ついた時の感情は、抑圧されると他の何かに形を変えて現れることが多いです。
うつもそうですが、過食気味になったり、人間関係が歪になったり、身体が不調になったり、私自身色々な形で体験しました。
臭いものに蓋をするように、見て見ぬ振りをされた感情が、どこかで静かに腐っていく。もしかしたら、ガスが発生して爆発さえ起こすかもしれない。

頭の中にそんなイメージが浮かびます。

 

だけど反対に、自分の怒りや悲しみに構い過ぎてしまうのも、ちょっと考えものです。

ぬか床は、あまり熱心にかき混ぜ過ぎると、乳酸菌が減って上手く発酵しないそうです。

ネガティブな感情も、四六時中こねくり回して反芻していると、どっぷりそこに浸かってしまって先に進めない。全然発酵してくれないまま、時間だけが過ぎていく気がします。

 

放ったらかしでも、手をかけ過ぎても、上手くいかない。

何事もほどほどが良いという話だけれど、その「ほどほど」を見極めるのが難しい。

野菜を漬ける時にも、自分の感情と向き合う時にも、そう感じます。

 

でも、もし失敗したとしても、大丈夫。

発酵しなければ、誰かから菌をもらって足して、またトライしてみればいい。

腐らせてしまったものは、土に還せば、何かの芽が出るかもしれない。“肥やしになる”というやつです。

いっそのことガス爆発で、これまで壊せなかった壁を吹っ飛ばす、ハードボイルドな展開もありかもしれない。

 

理系とは縁遠い私の、非論理的なエセ科学。

 

納豆をネバネバかき混ぜながら、ふとそんなことを考えるのでした。