生きるを手繰る

生きづらい私が、生きる気持ちをゆるりと手繰り寄せるために

意識低い系どころか、もはや意識ない系。時々無理して意識高い系

気分は落ち込んでいないのですが、寒暖差のせいか、このところ体の調子がいまいちです。頭の回転もややスローなので、今日はぼやきのような話。

うつが酷い時期は「意識が低い」というより、ほぼ「意識がない」

うつ状態で動けない時期の私は、意識が低いどころの騒ぎではありません。生産性は限りなくゼロ。もはや“意識がない”状態に近いです。

と言っても、もちろん失神するわけではないのですが、日々の境目が曖昧になり、その間の記憶がぼんやりとしています。寝たり起きたりして、なるべく栄養を摂り、なるべく身の回りのことをするので精一杯です。

何かを心から楽しめる状態ではないので、無理やり時間を潰すのがしんどい。生きてるだけで精一杯。まさにそんな感じです。

そうやって寝込んでいるうちに、世の中は動き、いつの間にか季節は変わっています。それに気づいて愕然として「私、しばらく意識なかったな…」と思う。そんなことを毎年繰り返してきました。

時々無理して、意識高い系になろうとする

少し元気が出てくると、動けなかった分の時間を取り戻そうとするように、何か意味のあることをしたい気持ちになってきます。自分基準で、ちょっとだけ意識が高くなります。

私の場合は「仕事しなきゃ!」という気持ちが強くなり、急に張り切って働き始めます。もしくは、仕事に役立ちそうな勉強に興味を持ったり、スキルアップ系の本を買い始めます。

もちろん悪いことではないですし、普通の人がごく普通にやっていることなので、以前は全く問題視していませんでした。ずっと自分がうつ病だと認識していたので、「やっと元気になってきた。これが普通の自分」と思っていたわけです。

それが順調な回復の兆しなら良いのですが、どうもこの“意識高い系”状態は長続きしません。しばらくすると、“意識低い”や“意識無い”になる状態を何度も繰り返します。双極性障害の可能性が浮上してからは、この“意識高い状態”は軽躁なのかも?と考えるようになったので、最近はそれを見定めることが課題です。

双極性であるかないかに関わらず、不調の後の回復期に焦って何かを始めてしまうことは、結構よくあるのではないでしょうか。そのまま上手くいけば何の問題もないのですが、続かなかったり、反動でまた調子を崩してしまうと落ち込みますよね。

何にせよ、どこからが今の自分にとって「無理」になってしまうのかを見極める練習を重ねるしかないのかなと思っています。すごく難しいことではありますが。

意識が高い人たちとの付き合い

私はこんな感じの波がある人間なので、周囲に意識の高い人がいると、コミュニケーションに悩みます。(“意識高い系”ではなく、本当に意識が高い人の話です。)

仕事に行くだけで精一杯の時に、「勉強会に来ない?」とか「資格取りなよ」とか言われると返答に困ります。

  • 意識低い方の自分で接する → やる気がない人と思われる
  • 意識高い系の自分で接する → その場は良いが、長続きしないので「口だけ」の人で終わる

このジレンマで苦しむのですが、最近は意識やや低めのポジションを取って、「どう思われてもいいや」と思うよう努めています。

努めているだけなので、内心はチマチマと気にしていたりもしますが、相手に対しても自分に対しても、なるべく当たり障りなくスルーするよう頑張っています。そんな時はなぜか「鈍感力」「(自分がやるべきことの)選択と集中」など、かつて流行った言葉がいくつか頭をよぎったりもします。

とにかく、未来の自分を守るために、無理はしない。そんな感じです。

ゆっくりでも、前に進む気持ちは持ちたい

意識が高い・低いという言葉の表現はさておき、ゆっくりでも、前に進み続ける気持ちを持つ人間ではありたいと思っています。時々後退することもあるかもしれないけれど、また進める時に進もう、と。

よく主治医に「久世さんは、螺旋階段を昇るようにゆっくり良くなってます」と言われます。できればエレベーターで楽をしたい…と思いつつも、贅沢を言わずに、これからも自分の足で昇っていこうと思います。そうすれば、ちょっとは心の筋肉も付くと信じて。