新卒くらいの年齢だった頃の話です。
居酒屋で、全く知らないおじさんに「手相を見てあげる」と話しかけられたことがありました。よく駅前で「手相の勉強をしているのですが…」と声をかけてくる人がいますが、あれとは別物です。居酒屋で出会った手相おじさんは、普通の40〜50代のサラリーマン風でした。
戸惑いました。私は初対面の人と打ち解けて、一緒に飲んだりできない性格です。しかも、それほど占いに興味もない。だけど何となく断りづらくて、手相を見せる流れになってしまったのだと思います。よく覚えていませんが。
よく覚えているのは、私の手を見るなり、おじさんが放った一言。
「うわ、手相薄い。自分がない人だね」
カッチーン!ときました。たしかに手のシワが浅くて、手相が読みにくいかもしれません。
でも、なぜ見ず知らずのおじさんにそんなことを言われなければならないのか。こっちから頼んだわけでもないのに、勝手に手相を見ておいてその言い草。根拠は手の平のシワだけ。
かなりムッとしましたが、私は適当に相槌を打って、その場を穏便に済ませたと思います。
「初対面の人に言われるがままに手相を見せて、ムカついたけど文句も言わなかった」という点においては、たしかに「自分がない」と言えなくもないです。でも「当たった!」とはとても思えず、何だか釈然としない出来事でした。
その後、おじさんについては特に思い出すこともありませんでしたが、「自分がない」という言葉は、呪いのように何となく心に引っかかっていました。
思い当たる節があったのだと思います。
幼い頃から、私にとって「空気を読むこと」「他人に合わせること」は、なるべく波風を立てずに暮らすためのサバイバルスキルでした。やや過剰に身についてしまったので、自分を押し殺しているような感覚になっていたのだと思います。
結果として、自分のやりたいことや感情が、よくわからなくなることがありました。
自分がないから、すぐ「どっちでもいいよ」と言ってしまう…
自分がないから、趣味らしい趣味がない…
自分がないから、将来の展望も見えない…
自分がないから、物事が続かない…
長い間ずっと、そんな風に思い込んでいました。
ところがどっこい。
最近になって、私は「自分がない」どころか、なかなか我が強い人間だと気がつきました。
例えば、このブログ一つとってみてもそうです。
世の中には、「たくさんの人にブログを読まれたかったら、こうしなさい」というブロガーのセオリーが色々と存在します。参考にさせてもらう部分も多々あるのですが、初心者のくせに結構肝心な部分を無視して、やりたいようにやってしまいます。
自分の書きたいことを書くために、広告に対する方針も変えました。
思っていたより、私は色々こだわりが強かった。
それにそもそも、自分がなくて柔軟に他人に合わせられるなら、それなりに社会で上手くやれている気がします。病気であることを差し引いて考えても。
「自分がない」のではなく、「我が強いから、自分を世間に上手くフィットさせる方法がわからなくて、ストレスを溜める」というのが正しい自己像に思えます。完全に認識が間違っていました。
「どっちでもいいよ」と言うのは、自分が執着していない物事だから。
趣味はありきたりだけど、全くないわけでもない。
将来の展望が見えないのと、物事が続かないのは、「自分がない」とは別の要因によるもの。
というわけで、自分がないと思い込んでいたら、実はめちゃくちゃ頑固者だったという話でした。
自分の頭で考え、自分の心で感じることをやめてしまわない限り、「自分がない」という状態は有り得ないと思います。
もし今、自分がないように見えていても、これまでの癖や環境のせいで、素直な自分が見えなくなってしまっているだけです。
誰にも邪魔されない場所や安心できる場所で、少しずつ自分の素を出していけば、「ない」と思っていた自分は見つかります。きっと。
「 空気を読みすぎて疲れる」についての考察はこちら。